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小沢一郎
経歴生い立ち水沢市立常磐中学校(現:奥州市立東水沢中学校)から2年次に文京区立第六中学校に転校。東京都立小石川高等学校卒業後、父と同じ弁護士を目指して東京大学を志望し、2年間浪人したが断念して、慶應義塾大学経済学部、日本大学大学院法学研究科へと進学した。
大学院在学中の1969年、父・佐重喜の急死に伴い第32回衆院選に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、以後木曜クラブ(田中派)に所属し、田中の下で薫陶を受けた。
田中派・竹下派時代自民党総務局長、衆議院議院運営委員長を歴任し、衆議院定数是正(7増8減案)や田中首相辞職勧告決議案などの懸案処理に裏方として対応。1985年に第2次中曽根内閣第2次改造内閣で自治大臣兼国家公安委員長として初入閣した。
1985年、木曜クラブの領袖として影響力を保持していた田中に反旗を翻した竹下登、金丸信らと共に派内勉強会「創政会」を結成。のちに経世会(竹下派)として独立した。竹下内閣の発足後、小沢は党・政府の要職を歴任し竹下派七奉行の一人に数えられ、官房副長官にも就任した。
第1次海部俊樹内閣では党幹事長に就任。リクルート疑惑や、宇野政権下での参院選惨敗後の初の総選挙となるため、苦戦が予想された第39回衆院選を、自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集め、勝利した等の実績から「剛腕」と称された。
1990年8月、湾岸戦争が勃発し、小沢はペルシャ湾への自衛隊派遣を模索した。「アジアへの配慮が必要だ」と反対する外務省を抑え法案を提出した(なお、この法案は野党の反対で廃案となり、後に国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO協力法)が成立)。自衛隊派遣について国会で公明党の協力を得るため、東京都知事選挙で党都連(東京都連合会)が推す現職に代わり新人を擁立するも敗北。1991年4月、責任を取り党幹事長を辞任した。直後に経世会会長代行に就任し、名実とともに派閥のNo.2となった。しかし、次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、竹下との確執を深めた。
1991年、政治改革法案が国会で廃案となったことを受け、首相海部俊樹が衆議院の解散総選挙をぶち上げたが、党内の反発を招き、海部は首相辞任に追い込まれた(海部おろし)。その際、金丸が小沢に対し後継首相となるよう命じ、金丸の意を受けた渡部恒三なども小沢を説得したが、当時49歳という年齢や心臓病(狭心症)で6月に倒れたことなどを理由にこれを固辞したとされる。だが、田勢康弘から「この逸話は実は真実ではない」と指摘されており、このようなやり取りは実際には存在せず、金丸や竹下は当初から宮澤喜一擁立を目指していたとされている。
1991年10月10日、自由民主党総裁選挙の際、派閥として支持する候補者を決定するため、出馬表明していた宮澤、渡辺美智雄、三塚博と自身の個人事務所でそれぞれ面談した(小沢面接)。しかし宮澤や渡辺のような当選回数・年齢も上の者(三塚は当選回数こそ小沢よりも一回少ないが、年齢は小沢より上だった)を自分の事務所に招いたことは傲慢であると批判された。このことは後々まで「経世会支配」「剛腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられた(実際は当日ホテルの会場が満室でどこも予約できず、3人の事務所を小沢が訪ねる予定だったのだが、推薦を受ける立場の人間を訪ねてもらうのは失礼だという話になり、小沢の事務所で面談することになったという平野貞夫 『虚構に囚われた政治家―小沢一郎の真実』 講談社、2007年、242頁。。宮沢も後に『日本経済新聞』連載の「私の履歴書」の中で、「支持をこちらからお願いしているのだから、出向くのが筋であった」と回顧した)。
竹下派分裂、羽田派結成
1992年、東京佐川急便事件を巡り、金丸が世論から激しい批判を受け、派閥会長を辞任、議員辞職した(東京佐川急便事件に関しては、小沢も1993年2月17日に証人喚問を受けている)。後継会長に小沢は金丸に近かった渡部恒三、奥田敬和らと共に羽田孜を擁立し、竹下直系の小渕恵三を推す橋本龍太郎、梶山静六らと対立。当初中立であった参院竹下派に竹下自らが関与して小渕支持を決定。この結果として後継会長は小渕に内定した。敗れた小沢は羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田派)を旗揚げし、派閥は分裂した。
宮沢喜一改造内閣における羽田派の閣僚ポストは、経済企画庁長官(船田元)と科学技術庁長官(中島衛)の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山が就任したことで、羽田派は反主流派に転落した。これに対し小沢は主流派を「守旧派」と、自らを「改革派」と呼び、持論であった政治改革の主張を全面に訴えた。
こうした中で小沢は5月20日に著書『日本改造計画』を発表した(実際に店頭に並んだのは6月下旬)。同書は政治家の著作としては異例の70万部を超える売上を記録し、1993年を代表するベストセラーになった。自らの政策・政見を広く国民に問うもので、小沢の理念を基に官僚や専門家を中心に政策としてまとめた。
自民党離党、非自民連立政権成立
1993年
6月18日、野党から宮沢内閣不信任案が上程され、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣は衆議院を解散した(嘘つき解散)。同年6月21日に武村正義らが自民党を離党(新党さきがけを結党)した。これが羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日新生党を結成した。小沢は幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に姿が見えず「党首(羽田)の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。新生党代表幹事時代には番記者との懇談会を廃止し、これまでの記者クラブ中心の会見から海外メディアや週刊誌記者なども会見に参加できるようにし注目を集めた。一方、自分の意に沿わぬ記事を書いたメディアと対立を起こした。
7月18日、第40回衆院選において自民党は過半数割れし、新生党、日本新党、新党さきがけの3新党は躍進した。宮沢内閣は総辞職した(後任の自民党総裁に河野洋平が選出)。小沢は総選挙直後から日本新党代表の細川護煕と非公式に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと傾斜した。8月9日、8党派連立の細川内閣が成立した。
細川政権下で小沢は内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長の市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし(一一ライン)、内閣官房長官として官邸主導を狙うさきがけ代表の武村と激しく対立した。
1994年、小沢と大蔵事務次官の斎藤次郎が中心となり、消費税を廃止し7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を決定した。2月3日 未明、細川は突如、「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発を受けた。また、社会、さきがけ、民社各党の批判に合い、翌日、細川は「国民福祉税」構想を白紙撤回するに至った。武村官房長官(当時)は、公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言、小沢との対立はますます先鋭化した。そのため、小沢は細川に武村を外すための内閣改造を要望するも、一連の動きに嫌気がさした細川は、4月に突然辞意を表明した。
細川の首相辞任を受けて、小沢は渡辺美智雄との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫。連立与党は羽田の後継首班に合意した。しかし、1994年4月25日の首班指名直後に、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、社会党は連立政権を離脱し、羽田内閣は少数与党となった。
羽田内閣は1994年度予算を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。当初は羽田も解散する腹で小沢も同調していたが、結局は解散総選挙を断念。6月25日に内閣総辞職し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。
小沢は羽田の後継として、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相の海部俊樹を担ぐことを決めた。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、新政策研究会(河本派)代表世話人でもあった。1994年6月29日、自民党は首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し、「自由改革連合」を結成、連立与党の首班候補となった。しかし決選投票で261対214で村山に敗れ、小沢は政治家人生において初めて野党の立場に落ちた。新生党内では小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するために、小沢の豪腕が必要とされた。
新進党時代1994年9月28日、日本共産党を除く野党各党187人により、衆院会派「改革」が結成された。また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。こうして小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年12月10日に新進党結成大会が行われた。海部が党首となり、小沢は党幹事長に就任した。
1995年7月、第17回参院選で、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得した。同年12月に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突し、小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。しかし、この党首選挙直後に投票者名簿が破棄されるなど、選挙結果が不明瞭であったため、羽田との決裂は決定的なものとなり、党内に更なる亀裂を生じさせた。
1996年
10月20日に第41回衆院選が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席に止まり、事実上敗北した。
総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、1996年12月26日、羽田は奥田敬和、岩國哲人ら衆参議員13名と共に新進党を離党、太陽党を結成した。
1997年、小沢は自民党の亀井静香らと提携する、いわゆる保保連合構想に大きく舵を切った。しかし新進党内には、こうした保保連合路線に対して二大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦は政策研究会「改革会議」を結成した。
12月18日の党首選挙で小沢は鹿野を破り再選された。この党首選に先立ち公明が次期参院選を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速した。党首に再選された小沢は、純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求。12月27日に小沢は旧公明党の参院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の分党と新党の結成を発表した。新進党内は蜂の巣をつついたような混乱に陥り、分党を決定した両院議員総会は、混沌の内に終わった。
自由党結成・与党復帰
1998年
1月6日、自由党を結成、小沢は党首に就任した。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆院議員42名、参院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を民主党に譲り渡した。
同年7月12日の第18回参院選では苦戦必至と思われていたが小沢人気もあり比例代表で514万票、合計6議席を獲得し善戦した。参院選後の臨時国会では、首班指名に民主党代表の菅直人を野党統一候補に臨み、参院では自民党の小渕恵三を抑え菅が指名された(衆院では小渕が指名されたため、衆議院の優越の原則から小渕が首相に就任した)。
小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより野党共闘はほころびを見せた。
1998年10月、小沢は内閣官房長官野中広務と会談、連立交渉を開始し、同年11月19日、小渕内閣との間での連立政権について合意した。そして1999年1月14日正式に自自連立政権が成立し、党幹事長の野田毅が自治大臣として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰した。この連立の間に衆議院議員定数20の削減、閣僚ポストの削減、および政府委員制度の廃止と党首討論設置を含む国会改革が行われた。
1999年7月、公明党が政権に入り、自自公連立政権が成立した。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため政権内部での自由党の存在感は低下した。自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は自民党総裁の小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。両者は2000年4月1日、会談するが、合意に達せず、結局連立を解消した(なお、この後に小渕は脳梗塞で倒れ、5月14日に死去した)。
自由党分裂・凋落自由党は、小沢を支持する連立離脱派と野田毅、二階俊博などの連立残留派に分裂し、残留派は保守党を結成した(分裂の結果、自由党は衆院議員18名、参院議員4名の計22名に半減、保守党には26名が参加)。小沢と袂を分かった保守党は政党助成金を半分づつ分け合うために分党を要求したが、自由党はこれを拒否。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。
2000年
6月25日の分裂直後に行われた第42回衆院選で、小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦した。このとき、約20億円を投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題となった(一方、保守党は7議席へと激減)。連立離脱後は野党共闘路線へ舵を切ることを余儀なくされたが、(過去に小沢から酷い目に合わされた)旧新進党や旧社会党出身者が多い民主党を始めとした野党との関係は当然ギクシャクしたものにならざるを得なかった。
同年7月29日の第19回参院選では、自民に小泉旋風が吹き、小沢の地元・岩手選挙区でも大苦戦を強いられたが、僅差で勝利した。議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党の比例代表は約420万票に止まった(第18回参議院選挙より約100万票、第42回衆議院選挙より約220万票の減少)。
民主党へ
2002年、第19回参議院選挙での結果もあって、小沢は鳩山由紀夫(当時、民主党代表)からの民主・自由両党の合併に向けた協議提案を受入れた。しかし、民主党内の調整が不十分であったこと及び民主党内の小沢に対する拒否反応の為に頓挫した(なお、鳩山は代表辞任に追い込まれた)。鳩山辞任後に民主党代表に選出された菅直人によって一旦合併構想は白紙に戻ったが、小沢は党名・綱領・役員は民主党の現体制維持を受入れることを打診し、両党間で合併に合意した。
2003年
9月26日、自由党は民主党と正式に合併し、小沢は民主党の代表代行に就任した。11月9日の第43回衆院選で民主党は公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得。民由合併後、小沢が最初に提携したのが旧社会党系の横路孝弘だった。小沢と横路は安全保障面での政策を擦り合わせ、その後横路と旧社民勢力は小沢と行動を共にした。また、小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが失敗に終わった。経済政策では、それまでの新自由主義から「地方経済」と「雇用」の重視の方針へ転換した。
当初、小沢派になると見られていた新自由主義的な「小さな政府研究会」には参加せず、東北出身議員だけをあつめて「東北議員団連盟」を結成し、地域主義への転向の姿勢を見せた。
2004年5月、年金未納問題による混乱の責任を取り党代表を辞任した菅の後継代表に小沢が内定したが、直後に小沢自身も国民年金が強制加入制度になる1986年以前に未加入だったとして代表就任を辞退した(結局、岡田克也が後任代表となった)。2004年7月11日に行われた第20回参院選の後、岡田の要請により党副代表に就任した。
2005年
9月11日、第44回衆院選で民主党は現有議席を60近く減らす惨敗を喫し、岡田は代表を引責辞任し、小沢も党副代表の職を辞任した。岡田の後任代表となった前原誠司は小沢に党代表代行への就任を依頼したが、これを固辞した。
民主党代表代表就任
2006年
3月31日に前原が「堀江メール問題」の責任を取って党代表を辞任、4月7日の民主党代表選で菅直人を破り、小沢は第6代の民主党代表に選出された。代表選後、小沢は菅を党代表代行、鳩山由紀夫を党幹事長にするトロイカ体制を敷いた。また、前執行部と次の内閣メンバー全員を残留させた。小沢は政令指定都市・都道府県の首長選挙に関しては原則として相乗り禁止の方針を打ち出した。小沢が党代表に就任した直後の4月23日にメール問題での逆風下にあった衆議院千葉7区補欠選挙で僅差ながら勝利を収め、9月12日の民主党代表選に無投票で再選された。
5月9日の会見で、衆院本会議を欠席しがちな理由として「食後すぐに仕事にとりかからないなど、医者の忠告を守っている」と、自身の体調管理を理由に挙げたことに関し、「議会軽視だ」と各方面から厳しい批判を受けた。また、自身の健康状態を語ったことに対して様々な憶測が流れた。9月25日臨時党大会で正式に代表に再選された後、狭心症の発作の兆候を感じたため、都内の病院に検査入院した。10月5日に退院し、自身の動脈硬化が進んでいることを明らかにした。
民主党代表時代の小沢の国会での論戦は、前原時代の「対案路線」ではなく、「対立軸路線」で与党とは対決姿勢を鮮明にした。自著『日本改造計画』では、「過半数が賛成している案を、少数のダダっ子がいて、その子をなだめるために、いいなりになってすべてを変えてしまう」のは「少数者の横暴」だと述べている。小沢は「審議を十分に行えば」与党による採決も止むを得ないという立場を取った。一方、議員数の多さを背景に強行採決した場合には徹底抗戦や審議拒否も辞さない戦う野党の姿勢も示した。ただし、この姿勢は審議拒否を度々行うことで「充分な審議を放棄した」「与党案の成立を手助けしている」との批判を生むことがあった。
外交政策での党内対立2006年10月に北朝鮮が核実験を行った後の朝鮮半島情勢は「周辺事態法」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢らトロイカ体制の見解を発表した。しかし、これに対して前原誠司を始めとする党内から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。
小沢は「核武装の論議を是認すれば『非核三原則を守る』という言葉も国民や国際社会に受け入れられない」と指摘した。しかし、その考えに不満を持つ一部保守層などが、自由党党首時代2002年の小沢の発言である「日本は一朝で数千発の核弾頭を持てる。」と日本の核保有能力について発言したことと比較して批判した。
防衛庁の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。民主党内には依然反対の声があったため衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議に欠席した。
統一地方選、参院選
2007年
4月8日に統一地方選挙(前半)が行われ、地元・岩手県の知事選で小沢チルドレンの代表格である達増拓也が当選。岩手県議選でも議席を増やし第1党を維持し、その他の道府県議選・政令市議選でも民主党は230議席(合併前の自由党含む)から145議席増え375議席に躍進した。
7月29日に行われた第21回参議院議員通常選挙で民主党は60議席を獲得、参議院第1党となり、野党全体(共産党を含む)で過半数を得た。選挙開票当日は「医者からの忠告」を理由に休養を取っていたとし、小沢はマスコミの前に姿を見せなかったが、7月31日の党常任幹事会に多くの報道陣が駆けつける中で出席、小沢は公約通り衆議院議員を今後も続けるとした。また、8月に前代表・前原、元代表・岡田等が党副代表に就任し、挙党体制を構築した。
ねじれ国会
8月8日には11月に期限切れとなるテロ対策特別措置法(テロ特措法)問題についてマスコミ公開の中、アメリカの駐日大使ジョン・トーマス・シーファーと会談した。シーファーは小沢にテロ対策特別措置法の期限延長に対する理解を求めたが、小沢はアフガン戦争が国際社会のコンセンサスを得ていないとして海上自衛隊の支援活動は認められないと主張し、反対の意向を示した。8月30日にはドイツ首相アンゲラ・メルケルと会談したが、この席でも改めてアフガン戦争が国連によるコンセンサスを得たものではないと主張した。結局テロ特措法は安倍内閣の総辞職で有効期限の延長が出来なくなり、そのまま失効した。
9月12日に首相辞任を表明した安倍晋三の後任となる内閣総理大臣指名選挙が9月25日に行われ、参議院で決選投票の末に福田康夫(自民党総裁)を抑えて、小沢が指名された(小沢133票、福田106票)。なお、衆議院で指名された福田が衆議院の優越規定に基づき首相となった。なお、両院の指名が異なったのは小渕恵三内閣下で民主党の菅直人が指名されて以来、9年ぶり4度目であった。
2007年11月2日、小沢は福田と会談し、連立政権について提案があった為、意見を党に持ち帰り臨時役員会に諮ったが、民主党内の反対を受け連立を拒否した。11月4日、連立騒動の責任を取り代表辞任を表明したが、民主党内の慰留を受け、11月6日代表続投を表明した。11月7日の両院議員懇談会で代表続投が承認された。
その後、テロ特措法の後継の法律として衆議院に提出されていたテロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法案(新テロ特措法)に対する議決が行われ、民主党が多数を占める参議院では反対多数で否決されたが、2008年1月11日に衆議院本会議で与党の3分の2以上の賛成多数で再び可決・成立した。この再可決の本会議で小沢は採決直前に退席し、党内の一部や他の政党の議員から批判された。対して小沢は「前からの約束で、選挙の約束は一番たがえてはいけないものだ」と強調。新テロ対策特措法について「国民にとっても民主党にとっても大事な法案ではない。反対の意思表示は既にしている。後は数あわせの本会議でしかない。結果は目に見えている。批判は理解できない。国民は理解してくれていると思う」と反論した。
2月29日、衆議院で2009年度予算案が野党3党の欠席のなかで強行採決された。小沢はこれに対し「信頼関係が完全に崩壊した」と発言し、強行採決をしたことで日本銀行総裁人事に影響を及ぼすのは避けられないとの態度を示す。民主党も強行採決されたのを受け武藤敏郎の日本銀行総裁への昇格を拒否する方針を決め、参議院で日銀総裁人事を否決した。3月18日、政府与党は改めて田波耕治を総裁候補として提示したが、この人事案も参議院で不同意となり、結果として白川方明が総裁に就任した。
9月22日、民主党代表選で小沢が無投票での3選を果たした。
主な政治的主張最初の著作である「日本改造計画」では新自由主義を主張したが、民主党代表に就任するとリベラル色を強めた。一方、2004年に公表した現行憲法の下での国連派遣部隊構想、さらにそれを発展させ2007年10月に公表した国際安全保障政策では、現行憲法との論理的整合性を維持しながら日本の国際安全保障政策(国連中心主義)を主張した。
外交、防衛政策
法務
経済、財政政策
教育政策
農業政策
他党、支持母体との関係
人物
かつては「悪魔の使者」「豪腕」「壊し屋」「日本最後の政治屋」「破壊王」と称され、「政治とは権力闘争である」という政治観の持ち主であった。金丸信は小沢、羽田孜、梶山静六の3人を「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評した。平成不況の最中、「政治改革などを主唱して権力闘争に明け暮れている」と、財界主流派からは批判された。
民主党内外では小沢アレルギーの存在が指摘され、これは若手議員よりも自民党当時を知る議員により強いとされた。「独断専行、側近政治、顔が見えない」との批判や、自民党分裂とその後の分裂工作、新進党分裂・解党等がその原因とされる。
周囲からは東北人気質も相まって朴訥な人物と評された。そのことから説明する努力に欠け、側近が離れる一因となっているとも指摘された。本人曰く「去るもの追わず。来るもの拒まず」。また、強面のイメージであるが私生活では恐妻家として知られた。歴史上の人物では西郷隆盛を尊敬するものの、政治家としては大久保利通を目指していると述べた。
不祥事事務所費問題
2007年
1月、自身の資金管理団体「陸山会」が2005年分の政治資金収支報告書に4億円を超える不透明な事務所費を計上していることが発覚した。鳩山幹事長は『(小沢から)「東京都世田谷区内に約3億6500万円相当の土地と建物を購入し、費用を事務所費として計上した」と聞いており「全く問題ない」』と反論した。
また、自身の資金管理団体が10億円を超す不動産を保有し(小沢個人名義で保有)、またその一部を賃貸運用していることなどが発覚し、物議を醸した。それに対し小沢は1月の衆院代表質問で、これらの「支出の詳細、領収書、関係書類を含め公表する用意がある」とし、同じく事務所費問題を抱える自民党に対し、大臣など責任ある立場の議員に公表を迫った。
2月20日、国会内での記者会見で、東京・世田谷区に約3億7000万円の秘書宿舎を建設し、加えて不動産取引の仲介手数料や登記費用として1100万円を計上したという、2003年~2005年の事務所費などを公開した。一方、10億円は国民の常識からかけ離れているとの批判もあるが、それだけ支援者からの寄付金が多かったということであり、また不動産を所有しても政治資金団体の財産なので問題はないと主張した。同時に、資金管理団体の小沢名義の資産を個人資産にしないという確認書を公開した。なお、陸山会の代表は小沢自身であり、この確認書は「陸山会代表である小沢一郎」と「個人である小澤一郎」の間で交わされたものになっている。
その後2007年10月9日、参院選で与野党逆転した後、初の本格的論戦で注目されていた衆議院予算委員会総括質疑の初日、「陸山会」が政治資金で購入したマンションの部屋をコンサルタント会社と財団法人に事務所として貸し、2002年から2006年の間に賃料計980万円を得ていたことが報じられた。
9日に民主党幹事長の鳩山由紀夫は「法に触れるようなことは何もしていない」とコメントし、「このタイミングで問題化させるのは政治的意図があるからではないのか」とも切り返した。また小沢代表も翌10日の記者会見で「1円単位で領収書を公開した2月時点で(メディアから)追及は全く無かった。それが半年以上も経過した今回一面トップで報じることは、政治的思惑でもって意図的に誹謗中傷した報道であると認識している」とし、これを一面で報じた毎日新聞をはじめ報道を批判するなど強く不快感を示した。なおこれらの違法性を強く否定しつつも今後不動産の売却を進めていく考えを表明した。
尚、この件を報じた週刊現代を名誉毀損で小沢は出版社を提訴。しかし、一審二審ともに小沢側の全面敗訴の判決が出され、上告をしなかったため、小沢の全面敗訴が確定している。
政策秘書公職選挙法違反容疑
第21回参議院議員通常選挙で当選した同党の青木愛の選挙運動員が事務所の指示を受け、参院選公示前日の7月11日、業者に依頼して選挙ポスター付きの看板設置に関する契約を1本当たり500円で千数百万円分の契約を結んだ疑いで逮捕された。
青木氏陣営から「看板に政党ポスターを張って設置し、公示後に選挙運動ポスターに張り替えるよう」発注を受けていた。
印刷会社社長らは、実際に選挙ポスター付きの看板を立てたアルバイトらに「職務質問されたらボランティアだと答えろ」などと指示をしていたため、違法性を認識していたと判断し選挙運動員と印刷会社社長らが逮捕。印刷会社社長が警察からの事情聴取で、小沢の政策秘書に報告しその内容を掴んでいたのではないかとも取れる供述を行なった。
これに対し、小沢自身は8月31日の記者会見で「選挙違反に当たるような行為は一切していないという(秘書からの)報告で、私もそう思っている」と捜査や報道を批判し強く不快感を示した。9月14日、千葉地検は逮捕した印刷会社社長らを「選挙違反にはあたるが、違法性の程度が比較的軽かった」と判断して起訴猶予処分とし、小沢の政策秘書も立件できないまま捜査を終結した。
エピソード
発言
所属議員連盟
選挙歴一族家族・親族
系譜
竹中藤右衛門━━┳寿美 (14代) ┃ ┣竹中宏平━━竹中祐二 ┃ ┃ ┗竹中錬一 ┃ ┃ ┃ 米内光政━━━━和子 ┃ (元首相) ┃ ┃ ┏竹下勇造━━━━┳竹下登━━┳公子 ┃ ┃(元首相)┃ ┗武永貞一 ┣竹下三郎 ┃ ┃ ┃ ┗竹下亘 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣まる子 福田正━━━━━┳雅子 ┃ ┣福田実 ┃ ┗和子 ┃ ┃ ┃ 小沢佐重喜━━━━小沢一郎 ┃ ┗一子 ┃ 金丸信━━━金丸康信 文献単著
共著
関連文献
雑誌関連文献抄
関連項目
脚注外部リンク
民主党代表|第6代 : 2006 - |前原誠司|現職}}
自由党党首|初代 : 1998 - 2003|(結成)|解散}}
新進党党首|第2代 : 1995 - 1997|海部俊樹|解散}}
自由民主党幹事長|第26代 : 1989 - 1991|橋本龍太郎|小渕恵三}}
自治大臣|第34代 : 1985 - 1986|古屋亨|葉梨信行}}
国家公安委員会委員長|第44代 : 1985 - 1986|古屋亨|葉梨信行}}
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