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浅井畷の戦い
浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)は、慶長5年(1600年)に起こった北陸地方における前田利長(東軍)と丹羽長重(西軍)の戦い。

経緯

慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死後、次の天下人の座をめぐって徳川家康が台頭する。これに対して、豊臣氏擁護の立場から、豊臣氏五奉行の一人である石田三成大谷吉継らが慶長5年、会津攻めに向かった徳川家康ら東軍に対して、敢然と挙兵したのである。
前田利長は豊臣氏五大老の一人で、前田利家の嫡男であったが、利家の死後、家康の謀略により生母の芳春院(まつ)を人質として江戸に差し出していた経緯から、東軍に与した。一方、西軍の大谷吉継は大大名である前田利長の動きを封じるため、越前加賀南部における諸大名に対して勧誘工作を行なった。その結果、越前の諸大名の多くが、西軍に与した。
吉継の勧誘工作は大成功であった。これにより、西軍は一戦も交えることなく、越前と加賀南部の諸大名を味方につけることに成功したのである。これに対して、前田利長は加賀以南の諸大名が全て敵となったことに危機感を抱き、加賀南部や越前を制圧すべく、2万5000人の大軍を率いて慶長5年7月26日、西軍に与した丹羽長重が守る小松城を包囲攻撃した。小松城の守備兵は長重以下、およそ3000名ほどに過ぎなかったが、小松城は「北陸無双ノ城郭」(「小松軍記」より)とまで賞賛されるほどの堅城であった。このため、兵力で圧倒的優位にありながら、前田軍は城を落とすことができなかった。利長はこのため、小松城にわずかな押さえの兵を残して、西軍の山口宗永が守る大聖寺城に向かった。そして8月2日に包囲攻撃を開始したのである。守る山口軍の兵力はおよそ2000人ほどに過ぎず、2万以上の前田軍の前に遂に敗れて、山口宗永・修弘親子は自害して果てた。
一方、大谷吉継は伏見城攻防戦など、西軍首脳として上方にとどまっていたため、しばらくは北陸に対する軍事行動を起こすことができなかったが、8月3日に入ってようやく越前敦賀に入り、北陸方面に対する軍事行動を起こした。しかし、吉継の率いる兵力はおよそ6000人ほどに過ぎなかった。そこで、吉継は得意の謀略を見せる。もともと、吉継は秀吉から奉行として用いられていたが、「100万の大軍を指揮させてみたい」とまで秀吉に言わしめたほどの名将だったのである。
吉継は前田軍に対して、「上杉景勝越後を制圧して加賀をうかがっている」・「西軍が伏見城を落とした」・「西軍が上方を全て制圧した」・「大谷吉継が越前北部に援軍に向かっている」・「大谷吉継の別働隊が、金沢城を急襲するために海路を北上している」など、虚虚実実の流言を流したのである。この流言に前田利長は動揺した。
さらに吉継は、西軍挙兵のときに捕らえていた中川光重(利長の妹婿)という人物を半ば脅迫して、利長宛に偽書を作成させ、それを前田利長のもとへ届けさせた。その文面は次の通りである。
「今度大軍を催サレ、近国ヲ打ナビケ、上方発向有之由聞候。是ニ因リテ、大坂ヨリ大軍、敦賀表ヘ出張ス。大谷刑部、敦賀ヨリ兵船ヲ揃エ、貴殿出軍ノ跡を加州ノ浦々へ乱入セント欲ス。足長ニ出発候テ、海陸前後に敵を受ケタマヒテハ、始終覚束ナク候。能々御思慮有ルベシ」
これら一連の吉継の謀略から、利長は自分の留守中に居城の金沢城が吉継に海路から襲われることを恐れた。そして8月8日、利長は軍勢を金沢に戻すことにしたのである。

浅井畷の戦い

しかし、撤退するためには問題があった。前田利長は加賀南部に攻め入るに当たって、小松城を攻め落とせず、わずかな押さえの兵を残して大聖寺に進軍していたのである。このため、撤退途中に丹羽軍が前田軍を追撃する可能性があったのである。利長はできるだけ隠密裏に撤退を行なおうとしたが、やはり2万5000人もの大軍勢の動きを隠密裏にすることなどは不可能だった。丹羽長重は前田軍の金沢撤退を知って、軍勢を率いて小松城から出撃した。
小松城の周囲には泥沼や深田が広がっている。その中を、幾筋かの畷(縄手)が走っている。畷とは縄のように細い筋になっている道のことであるが、小松城の東方に浅井畷という畷があった。長重はこの浅井畷で兵を率いて前田軍を待ち伏せした。8月9日、前田軍が浅井畷を通ったとき、待ち伏せしていた丹羽軍が襲いかかった。いくら大軍とはいえ、左右から襲われてはたまったものではない。しかも畷のために道幅が狭く、大軍としての威力を発揮することができない。このため、前田軍は大被害を受けたが、前田軍の武将・長連龍山崎長徳らの活躍もあって丹羽軍を撃退し、何とか金沢に撤退することができたのである。

影響

この戦いは、北陸における「関ヶ原合戦」であった。8月末、利長は家康の命令を受けて美濃関ヶ原に進出するべく再び行動を起こす。丹羽長重は利長に降伏を申し入れたが、遂に関ヶ原本戦には間に合わなかった。
しかし、北陸における西軍の奮戦は報われなかった。9月15日の本戦で西軍が壊滅したことから、越前・加賀南部の諸大名は東軍に降伏を余儀なくされ、丹羽長重をはじめ多くの諸大名は、家康によって改易されてしまったのである。
あさいなわてのたたかい あさいなわてのたたかい
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.

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