マクラーレン(
McLaren )は、
1963年に
ブルース・マクラーレンにより設立されたイギリスのレーシング・チームである。レースチームの会社としての正式名称は
マクラーレン・レーシング(
McLaren Racing )であり、マクラーレン・グループの一角を為す。代表はマクラーレン・グループの会長である
ロン・デニスが兼任している。
概要
ブルース・マクラーレンにより設立され、
1966年より
F1に参戦しており、
フェラーリ、
ウィリアムズと並び、F1を代表する名門チームの一角に数えられている。ロン・デニスを中心とする、完璧主義で規律を重んじるチームとして知られる。そのロン・デニスの気質等から「帝国」と呼ばれることが多く、現在のシルバーの車体色と合わせて、
フジテレビの
F1グランプリの放送内ではしばしば「銀河帝国」と表現される。
2006年シーズン終了時点で、グランプリにおける優勝回数、ドライバーズタイトル獲得回数、ともフェラーリに次ぐ歴代2位、コンストラクターズタイトル獲得回数ではフェラーリとウィリアムズに次ぐ歴代3位となっている。
2005年シーズン半ばまでタイトルスポンサーだった
ウエストにかわり、
2007年からは
ボーダフォンがタイトルスポンサーとなったことから、エントリー名はボーダフォン・マクラーレン・メルセデス(
Vodafone McLaren Mercedes)となる。
歴史
1960年代
- 1963年、ブルース・マクラーレンにより、ブルース・マクラーレン・モーターレーシングが設立
- 1966年モナコGPでF1デビュー。
- 1966年と1967年はブルース・マクラーレンのみの1カーエントリーだった。マクラーレンはF1に参戦するかたわら、ブルース・マクラーレンとデニス・ハルムのコンビでM1B(1966年)とM6A(1967年)を駆り、Can-Amにも参戦した。
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1968年、この年より2カーエントリーとし、Can-Amのデニス・ハルムをF1チームにも加える。ブルース・マクラーレンはブランズハッチで開催された非選手権で優勝を飾るとともに、同年のベルギーGPでチーム・マクラーレンにとってのF1初優勝を遂げた。
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1969年、ブルース・マクラーレンによる1回の優勝を含む5回の表彰台を得る。デニス・ハルムはM8Bを駆り、Can-Amの各レースを制覇。
1970年代
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1970年は悲劇にいきなり襲われた。6月2日、グッドウッドサーキットでCanAm用の新車M8Dをテストドライブしていたチームのボス、ブルース・マクラーレンがマシントラブルが原因で起きたクラッシュにより死亡したMclaren: The Grand Prix, CanAm and Indy Cars., Doug Nye, Hazleton Publishing, ISBN 0-905138-54-6。この事件はチームにとって巨大な痛手であったが、チーム運営はテディ・メイヤーによって引き継がれ、引き続き、CanAm、F1、F2、インディ500、F5000などへの参戦を継続し、いずれのカテゴリーにおいても目覚しい活躍を見せた。
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1972年、ペンスキーチームのマーク・ダナヒューの手により、コンストラクター(車体製造者)としてインディ500初優勝を遂げた。そして同年末には充分な成果を残したCan-Amから撤退し、以後はF1とインディに集中することを決めた。この決定は正しく報われ、1974年、F1において初のコンストラクターズタイトルを獲得するとともに、やはり初となるドライバーズタイトルをエマーソン・フィッティパルディの手により獲得し、同時にインディ500においてもジョニー・ラザフォードによって2度目の優勝が果たされた(マクラーレン「チーム」としてはインディ500初優勝)。このふたつのカテゴリーを同じ年に制したのは、1965年のロータスに次ぐ2例目であった。
- スポンサー面では1972年からはヤードレイ化粧品、1974年からはマールボロと契約し、この年からマルボロカラー=マクラーレンといった関係は長期にわたって続くこととなった。ちなみにこの2社とも以前はBRMをスポンサードしていた。
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1976年、この年のF1選手権ではジェームス・ハントが、日本で開催され雨で混乱したレースとなった最終戦でフェラーリのニキ・ラウダをポイントで逆転して王座を獲得。インディ500においてまたもジョニー・ラザフォードにより、マクラーレン製シャシーとして3度目、マクラーレンチームとしては2度目となる優勝を遂げた。
- その後、参戦することの意義が薄くなったとして、1979年限りでインディ500から撤退した。
1980年代
1980年-1984年
- 前年型のM29改良型である、M29B,M29Cでシーズンを戦い、後半には旧チームとしては最終型のM30を1台投入した。開幕戦でアラン・プロストをデビューさせ、そのレースと次のレースで連続入賞を果たしたが、マシンの競争力、信頼性は決して高くはなく、キャラミで行われた南アフリカグランプリでは、走り出して最初のコーナーでフロントサスペンションマウントが破損するなど、トラブルが度々発生した。マシントラブルによるクラッシュでプロストが怪我を負うこともあった。
- シーズン終了後、それまでのマクラーレンと、マールボロの後ろ盾を元にロン・デニスのチーム、プロジェクト4の2チームが合併し、現在まで続くマクラーレンの体制の基礎が作られた。
- 1979年途中でF1を引退していた元ブラバムのニキ・ラウダを復帰させることに成功。シーズン終了後、テディー・メイヤーの持つ株を買い取りロン・デニスがチームの実権を掌握する。
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TAGのスポンサーでポルシェターボエンジンを開発。一貫して使い続けてきたコスワースのDFVエンジンに別れを告げ、第12戦オランダGPから、そのポルシェ1.5リッター・ターボV6エンジンを搭載したMP4/1Eが投入され、ラウダは同マシンをドライブ。残りのレースは、結果的に来シーズンの準備となった。1987年まで使用されるこのエンジンは、マクラーレンからオーダーされる形で設計・製作されたので外形寸法などもバーナードから厳密に指定され、車体デザインの自由度を広げる面でも大きく貢献した。
- 完全新設計のMP4/2シャシーを投入。ラウダのチームメイトとして、前年ルノーにいたアラン・プロストがチームに復帰した。ドライバーズタイトル争いはこの二人によって繰り広げられ、全16戦のうちラウダが5勝、プロストが7勝の計12勝をあげた。最終的にラウダがプロストをわずか0.5ポイント差で下し、自身7年ぶり3度目のワールドチャンピオンに輝いた。マクラーレンにとって、ドライバーズタイトルはジェームス・ハント以来8年ぶりで、コンストラクターズタイトルは10年ぶり2度目であった。ちなみにマクラーレンはレースのたびに、ふたりのドライバーがマシンを壊すことなくピットに戻ってくるので、シャシーにかけていた保険を解約した。なお、4シーズンに渡ってタイヤ供給を受けていたミシュランが、このシーズンでF1から撤退した。
1985年-1989年
- 前年に引き続きコンストラクターズチャンピオンを獲得した。ドライバーズチャンピオンは、ラウダを下してプロストが初めて獲得した。この年、キャラミで行われた南アフリカグランプリにて投入されたMP4/2Bの6号車が、完全にマクラーレンのファクトリーで自製された初のモノコックである。
- コンストラクターズタイトルはホンダエンジンを搭載したウィリアムズに奪われたが、ドライバーズタイトルはプロストが最終戦で7ポイント差を逆転し、前年に引き続きドライバーズタイトルを獲得した。
- タイトルは獲得出来なかったが、プロストが3勝を上げた。シーズン途中のイタリアGPで翌年の体制発表を行い、ホンダエンジンの獲得とアイルトン・セナのチーム加入を公表した。マクラーレンは前年にもホンダエンジン獲得を狙っていたが果たせずにいた(1986年6月にデニスとプロストが来日しホンダにエンジン供給を要請したが、既にホンダはウィリアムズ・ロータスの2チームへのエンジン供給を決めた後で、要請を断らざるを得なかった)。
- プロストとセナのラインナップと新設計のMP4/4、ホンダエンジンの組み合わせは、16戦中15勝という圧倒的な成績を残し、コンストラクターズとドライバーズの両タイトルを獲得した。唯一優勝を逃したイタリアGPはプロストがエンジントラブル、セナはトップを走りながら、第1コーナーで周回遅れのジャン=ルイ・シュレッサーと接触してストップしたというもので、ドライバーいずれかが完走したレースは必ず優勝した。この年はポールポジションも15回獲得し、獲得したコンストラクターズポイントは199ポイントで、2位のフェラーリに対し134ポイントもの差をつけた。
- 前年同様の布陣でダブルタイトルを獲得するが、深刻な問題も起きた。前年の第13戦ポルトガルGPでのレース中にセナがチームメイトであるプロストに幅寄せをしたことから両者の間に不協和音が生じ始め、この年のサンマリノGPにおいて、「1コーナーの通過順位をオープニングラップにおいては守る」というチームメイト間の紳士協定をセナが破ったことによって、プロストとセナの亀裂は決定的なものとなり、その後シーズン途中でプロストがチーム離脱を発表した。第15戦日本GPではシケインでお互いに道を譲らずに接触し、両者のエンジンは停止した。セナは復帰しトップでチェッカーを受けたが、プロストによる抗議によりシケイン不通過(後に押しがけに変更)との裁定が下され、セナはレース後に失格となった。これによりプロストの3度目のチャンピオンが決まった。
1990年代
1990年-1994年
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アラン・プロストのフェラーリへの移籍により、フェラーリからゲルハルト・ベルガーがセナのチームメイトに迎えシーズンを戦った。最終的に、日本グランプリにてコンストラクターとドライバーの両タイトルを獲得した。空力面でバランスを崩しつつあったマクラーレンは、その分野で優位性を築いたフェラーリによって苦しめられ、タイトル争いは前年同様に第15戦日本GPまで持ち込まれた。
- 日本GPのスタート直後の1コーナーでセナがプロストに激突したことで両者リタイアとなり、セナの2度目のチャンピオンが決まり、マンセルのフェラーリがマシントラブルでストップしたことにより、コンストラクターズタイトルも決定した。
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ホンダが前年から開発していたV12型エンジンを導入しシーズンを戦い、セナが当時の新記録となる開幕4連勝を達成した。シーズン中盤はルノーエンジンを搭載したウィリアムズが、戦闘力を増し追い上げてきた。特にエンジントラブルやテレメトリーのミスによるガス欠でのストップ等もタイトル争いで苦戦する要因となった。こうした状況に至って、シーズン途中でアクティブサスペンションとセミオートマチックトランスミッションの開発に着手した。序盤戦に広げた差を詰められながらも結果的には逃げ切り、第15戦日本GPでセナが2年連続のドライバーズタイトルを獲得した。コンストラクターズタイトルも、最終戦オーストラリアGPまでもつれたものの獲得した。
- 日本GPでは「スタート直後の1コーナーに先に入った方が優勝とし、後ろに回ったものがマンセルをブロックする」と両ドライバー間で約束をしたが、レース途中にベルガーのペースが上がらずセナがベルガーを抜いてしまった。そのままレースは進行したものの、セナが最終周の最終コーナーでベルガーを前に出して優勝を譲った。
- この年、チームの無線はスクランブルが掛かっていたはずであるが、ブラジルGPのチェッカー後のセナの声が地元テレビ局によって傍受された事はチームサイドに衝撃を与え、翌年から使用する予定だったケンウッドの無線をこの年の日本GPから前倒しして使用し始めることとなった。
- 体制そのものは前年と同じ布陣で、序盤戦を信頼性の高い前年の改良型MP4/6Bで戦った後に新型MP4/7Aを出す予定だったがウィリアムズのFW14Bが速く、改良をほどこした旧型では勝負にならなかった。そのため第3戦ブラジルGPで、マクラーレン初のハイテク搭載車としてセミオートマチックトランスミッション、F1では初となる「ドライブ・バイ・ワイヤ」と呼ばれるコンピューター制御のアクセルシステムを導入したMP4/7Aが投入された。
- エンジンパワーでエアロダイナミクスの弱点を補うという前年までの方法を行なうマクラーレンに対し、アクティブサスペンションなどのハイテク、ルノーエンジン、空力に優れたシャシーらがバランス良くまとめられたFW14Bを武器とするウィリアムズの前に歯が立たず、結局5勝を挙げるにとどまり両タイトルいずれも獲ることが出来なかった。この年を以ってホンダは第2期F1参戦に終止符を打ち、撤退した。
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CARTのチャンピオンであるマイケル・アンドレッティと、ロータスから移籍してきたミカ・ハッキネンがチームに加入した。セナは休養するという話もあったが、結局開幕前に契約し、参戦。ハッキネンはセナが戻った場合、テストドライバーとなる契約であった。その後、セナは第8戦のフランスGPまではレース毎に参戦契約を交わしていた。フォードワークス仕様のエンジンを供給されていたベネトンに対し、カスタマー仕様のフォード・コスワースV8エンジンでパフォーマンスも劣っていた。ロン・デニスの政治力で第9戦からはベネトンと同じ仕様のエンジン供給契約を結んだ結果、セナとも第9戦以降の全戦出場の契約を結んだ。
- この年のMP4/8は空力、ハイテク装備は他のチーム以上のレベルであったが、ルノーエンジンより50馬力から70馬力も劣るとされるフォードエンジンのパワー差と、シャシーの性能面でもウィリアムズとの差は大きかった。しかし、前年に供給されていた大きくて重いホンダエンジンが軽量なコスワースに代わったことにより、マシンの重量バランスは改善され、戦闘力が向上。結果的にセナ一人で前年と同じ年間5勝を挙げた。最終戦のオーストラリアGPではこの年唯一のポールポジションをセナが獲得し、ウィリアムズの全レースポールポジション獲得を阻止した。コンストラクターズランキングもウィリアムズに次ぐ2位となった。
- アンドレッティは開幕戦からリタイアが続き、シーズン終盤の第13戦イタリアGPでの3位表彰台を最後に契約解除となりアメリカへ帰国し、テストドライバーを務めていたハッキネンが残りの3レースを走る事になった。ハッキネンは復帰初戦となった第14戦ポルトガルGPでいきなりセナを予選で上回り、第15戦日本グランプリでも初の3位表彰台を得た。翌年以降のエースに伸し上ることとなった。
- シーズン中にはアメリカのビッグ3の一つであるクライスラー社からの依頼でクライスラーV12エンジン(ランボルギーニエンジンをこのテスト用に改良したもの)をテストしたが、「あくまでも依頼されたテスト走行」と言う位置づけであったことに加え、同時期にプジョーから多額の契約金付きの契約オファーがあったため、そちらを優先して契約を結んだ。
- ハッキネンとマーティン・ブランドルのコンビとなる。MP4/8のデザインを踏襲したMP4/9に、前年のフォード・コスワースからワークスのプジョーエンジンに乗せ換えた。前半戦はエンジンの信頼性が低く頻発するエンジントラブルによって苦しめられ、第5戦スペインGPではハッキネンがトップを走っていたが、エンジンブローでリタイアした。第7戦フランスGPでは、よりによってプジョーにとっては同国のライバルであるルノーの看板の前で2台ともエンジンブローを起こし、イギリスGPではスタート直後に、ブランドルがエンジンブローとなるなど散々な結果であった。チームは複数年契約だったプジョーとの契約をこのシーズンのみで打ち切り、翌年はイルモアが開発するメルセデスベンツエンジンへと変更することをシーズン終了前に発表し、4シーズン連続のエンジンメーカーの交代となった。後半戦からは信頼性も上がり表彰台にも8回上がったが、1980年以来14年ぶりの「未勝利」に終わる。
1995年-1999年
-
ナイジェル・マンセルと契約を結ぶが、コックピットが狭いことを理由にマンセルは開幕から2戦は参戦せず、チームは代わりにマーク・ブランデルをレース毎の契約で乗せることとした。マンセルは第3戦サンマリノGPと第4戦スペインGPで走ったが、予選でミカ・ハッキネンより遅く、決勝でもそれぞれ10位とリタイアであった。それ以降、マンセルはチームを去る。元々ロン・デニスとマンセルは「犬猿の仲」であったが、メインスポンサーであるマールボロが元ワールドチャンピオンのマンセルを欲しがった為、もしくはセナの死によりスター不在を憂慮したバーニー・エクレストンらの意向が働いたなど、何れにせよ政治的要因での加入であった。それゆえ、シーズン開幕以前の段階で多くのF1関係者が、デニスとマンセルの契約関係が早期に破局すると予想していた。
- MP4/10はエアインテーク上にセンターウィングを搭載し、当時としてはユニークなデザインをしたマシンであった。メルセデスベンツエンジンとのマッチングや空力が弱く、戦闘力不足はウィリアムズ、ベネトン、フェラーリと比べると明らかで、シーズン中にMP4/10B、MP4/10Cとモディファイされた。
- ハッキネンが虫垂炎になり、第15戦パシフィックGPではテストドライバーのヤン・マグヌッセンを起用した。マグヌッセンにとっては、マクラーレンでのレース出場はこの1戦のみであった。第16戦日本グランプリでは復帰したハッキネンが2位入賞した。しかし、最終戦オーストラリアGPの予選でハッキネンは、タイヤのパンクが原因でコンクリートウォールに激突。選手生命を左右する瀕死の重症を負う。まさに辛いシーズンを最悪の形で終えることとなった。ハッキネンを治療に専念させるため、年末からアラン・プロストがアドバイザー兼テストドライバーとして迎え入れられた。
- 1月のテストを、ウィリアムズから移籍してきたデビッド・クルサードとアドバイザーであるプロストで進めていた。ハッキネンも2月に戻ってきて3ヶ月ぶりにドライブし、いきなりフェラーリのミハエル・シューマッハを凌ぐタイムを叩き出し、速さを示した。ハッキネンが開幕戦から参戦できる目処もつき、ハッキネンとクルサードのドライバーズラインナップになった。このコンビは2001年まで続く。
- MP4/11は前半戦でハンドリングに悩まされたが、後半戦からサーキットによりショートホイールベース仕様のMP4/11Bを投入した。信頼性の向上で完走&入賞数は増えたものの、速さに課題を残すシーズンとなった。
- このシーズンをもって23年間、メインスポンサーだったマールボロとの関係が終了。慣れ親しまれた「赤・白」のカラーリングも見納めとなった。この訣別により、同シーズンで契約を終了するハッキネンがマールボロの後押しでフェラーリへ、ウィリアムズのデイモン・ヒルが加入するという移籍話も出てきたが、結局第15戦ポルトガルGPでマクラーレンはハッキネンの残留を発表した。
- ウィリアムズのチーフデザイナーであったエイドリアン・ニューウェイが11月にウィリアムズから離脱し、マクラーレンとの契約を締結。しかし、ウィリアムズは契約が残っていることを訴え、法廷闘争に持ち込んだ。ニューウェイは契約解除が出来なくなり、この時点ではいつからマクラーレンに加入できるかは未定だった。
- インペリアル・タバコのドイツ向けブランドであるウエストがタイトルスポンサーとなった。この年、開幕戦オーストラリア・第13戦イタリアGPでクルサードが、最終戦ヨーロッパGPでハッキネンがF1で初優勝し、年間で計3勝をあげた。その一方でハッキネンがトップを走っていた第9戦イギリスGP、第14戦オーストリアGP、そして4年ぶりにポールポジション(ハッキネンが獲得)に返り咲いている第15戦ルクセンブルクGPとメルセデスベンツエンジンのトラブルによりリタイアをし、信頼性に課題を残すシーズンとなった。
- 技術陣では契約上の問題をクリアしたニューウェイがテクニカル・ディレクターとして第11戦ハンガリーGPから加入。その後、マシン開発に拍車がかかり、翌年への明るい材料となった。
- シーズン終了後にグッドイヤーが「1998年をもってF1から撤退する」と発表したため、同年まであった同社とのタイヤ供給契約を破棄し、1997年12月のテストからブリヂストンタイヤへ変更する事になった。
- この年のMP4-12より、車体形式番号の表記の区切りが従来のスラッシュ「/」からハイフン「-」に変更されている。
- 前年の12月から、今シーズン仕様の各パーツを載せたMP4-12Bは、ブリヂストンタイヤの理解も兼ねて約8,000kmを走りこみ、MP4-13への開発に繋げた。
- 開幕戦オーストラリアGPでは1-2フィニッシュして3位以下を周回遅れにしたが、トップ走行中のクルサードが56周目にハッキネンを前に出すチームオーダーが発生。この行為をオーストラリアのプレスや主催者はレースの精神に反すると批判したが、擁護するプレスもいた。ちなみにマクラーレンの言い分は「むやみなチームメイト同士のバトルを避けるために“スタートで1コーナーに先に入ったドライバーに勝つ権利がある”という取り決めをしていた。ハッキネンが一時2位に落ちたのも、チームの無線ミスによりピットインを1回多くしていたから」であった。
- 第2戦ブラジルGPからチームオーダー禁止となったが、具体的な罰則内容はこの時点では何も決まっていなかった。さらに同GPのレーススチュワードはフェラーリからの抗議を認め、MP4-13のブレーキ・ステアリング・システムを使用禁止とする。もともとマクラーレンは、開幕前にFIAの技術部門からレギュレーションに反していないという承認をもらい、使用していた。
- 最終的にはハッキネンが8勝、クルサードが1勝をあげ、1991年以来のドライバーズタイトル&コンストラクターズタイトルを獲得した。ブリヂストンにとっても初ポール・初優勝・初ダブルタイトルと初物づくしのシーズンとなった。ブリヂストンタイヤを装着するマクラーレン・メルセデスを駆るハッキネンと、グッドイヤータイヤを装着するフェラーリを駆るミハエル・シューマッハの対決が話題を呼び、最終戦の日本グランプリ迄、もつれ込む展開となった。
- 予選ではハッキネンが全16戦中ポールポジションを11回獲得し、決勝ではハッキネンが5勝、クルサードが2勝をあげたものの、MP4-14の信頼性不足に悩まされ、ピット作業やチーム戦略のミスが重なり、苦戦を強いられた。
- また、フェラーリが第8戦イギリスGP迄はミハエル・シューマッハ、第9戦オーストリアGPからエディー・アーバインと、優先するドライバーを明確に決定していたことに対し、マクラーレンではチャンピオンになったハッキネンとクルサードを第14戦ヨーロッパGP迄、平等に扱う戦略を採っていた。結果的にオーストリアGPと第12戦ベルギーGPで両者接触を招き、オーストリアGPではアーバインにポイントを献上することとなった。
- 第15戦マレーシアGPで決勝後、フェラーリが競技審査委員会からディフレクターの寸法違反で一旦失格になり、ハッキネンのワールドチャンピオンとコンストラクターズチャンピオンが決まりかかった。しかし、5日後のパリで開かれたFIAの国際控訴裁判所でフェラーリの逆転無罪となる。
- タイトル争いは第16戦(最終戦)の日本GP(鈴鹿サーキット)までもつれ、アーバインに4ポイント差であったハッキネンが逆転優勝し2年連続のワールドチャンピオンに輝いたものの、クルサードはスプーン・コーナーの手前でスピンしてフロントウィングとサスペンションを破損し、リタイア。コンストラクターズタイトルはフェラーリに奪われてしまった。
2000年代
2000年-2004年
- 再びフェラーリとミハエル・シューマッハとの激しいチャンピオン争いとなったが、惜しくも両タイトルともに逃す結果となる。
- この年、タイトルこそ逃すこととなったが、テストドライバーとして契約をしたオリビエ・パニスの加入はMP4-15の開発に大いに貢献した。1997年よりブリヂストンを使用し、またレギュラードライバー時代の豊富な経験もあるパニスは、チームに膨大な情報をもたらした。パニスは翌2001年のレギュラーシートをB・A・Rに確保するという、当時としては珍しいキャリアを築くことに成功した。当時、レギュラードライバーからテストドライバーになったドライバーが、再度レギュラードライバーになることは珍しいことであった。マクラーレンのテストドライバーは、翌2002年はアレクサンダー・ヴルツ、2003年にはペドロ・デ・ラ・ロサが担当し、強力な布陣を敷くことに成功した。
- この年からベリリウム合金の使用が禁止となる。これはフェラーリから「ベリリウムは人体に有害である」との抗議が国際自動車連盟(FIA)に対して行われた為であるが、以前からベリリウムを使用していると噂されていたメルセデスはこの決定の影響を大きく受け、苦戦を強いられた。
- また、主要スタッフの離脱やデザイナーのニューウェイのジャガーへの移籍騒動などもあり、チーム体制は不安定であった。度重なるマシントラブルがハッキネンを襲い、ハッキネンはこの年をもってF1を「休養」することとなった(結局翌年のドイツGPにおいてF1引退を発表)。コンストラクターズランキングは2位であった。ハッキネンは9年間、マクラーレンに在籍した。
- この年からはハッキネンの後を受けて、同郷のキミ・ライコネンがザウバーから移籍してきたが、前年からのチーム内の乱れが尾を引き、車の熟成作業がヨーロッパラウンドに入ってから本格的になるというありさまとなってしまう。フェラーリに対するにあたって同じタイヤで戦ってはアドバンテージが少ないとの判断から、この年からタイヤメーカーをブリヂストンからフランスのミシュランへ変更したものの、初年度のこのシーズンはタイヤの特性の違いをチームが把握しきれず苦しい戦いとなる。また、この年はタイトル争いに加わる事が出来なかっただけではなく、フェラーリがシリーズを席巻したこともあり、優勝ですらモナコGPでデビッド・クルサードが挙げた1勝にとどまった。
- トップチームが揃って、熟成された新車投入ができなかったため、旧型を大幅に改良させたマクラーレンが、開幕戦をクルサード、第2戦をライコネンが勝利するなど、順調なスタートを切ったが、特にクルサードが新予選方式に対応できず、下位のグリッドに沈み、追い上げるも表彰台は遠く、足を引っ張ることとなる。一方、ライコネンがわずか1勝ながらしぶとくポイントを稼ぎ、最終戦までシューマッハを追い詰め、ドライバーズランキングではわずか2ポイント差のランキング2位の成績を収めた。この年からミシュランタイヤ専用とも言える「MP4-18」を投入するはずであったが、十分な信頼性と戦闘力を得る事が出来ずにお蔵入りとなり、旧型の改良版の「MP4-17D」でシーズンを戦い抜いた。また、シーズン途中ではあったがデ・ラ・ロサを臨時でテストした後にフルタイムテストドライバー契約を結び、ヴルツとの2名によるテストチーム体制を整えている。
- 前年と同じ体制で、昨年デビューするはずだった幻のMP4-18を新ルールにあわせて改良したMP4-19を投入するが、MP4-18が持っていた弱点はMP4-19では改善出来ておらず(新車が間に合わなかったため基本的に19は18と同じ車であったと後にエイドリアン・ニューウェイが語っている)、第11戦のイギリスGPでようやく本来の新車が「MP4-19B」としてデビューした。これはマクラーレンのチーム関係者も、チームが2年連続で新車開発に失敗した結果である、と、後に認めている。このイギリスGPでライコネンがシーズン初の表彰台に登りその後も表彰台に登るが、優勝はベルギーGPの1勝にとどまり、コンストラクターズランキングは3位から5位へと後退した。クルサードにとってはマクラーレン最後のシーズンであったが、一度も表彰台に登ることなく9年間在籍したチームを去っていった。
2005年-2008年
- ライコネンのチームメイトにファン・パブロ・モントーヤを迎える。シーズン当初は信頼性不足などで出遅れたが、ヨーロッパラウンド以降は、ルノーのフェルナンド・アロンソと激しいタイトル争いを繰り広げる。MP4-20はハンガリーGPから日本GPまでの6連勝を含む、1989年以来となる2桁勝利の10勝を挙げる。しかし、ライコネンを襲った4度のエンジントラブルをはじめ、信頼性の低さはいかんともし難く、結果としては惜しくもチームもライコネンもランキング2位に終わってしまった。
- この年は、前年コンストラクターズランキング5位で終えたため、金曜日のフリー走行でサードカーを走らせる権利を得、デ・ラ・ロサとヴルツがグランプリにより交替で担当した。レギュラードライバーのモントーヤがテニス中に肩を負傷するというアクシデントに見舞われたため、バーレーンGP、サンマリノGPの2戦をそれぞれデ・ラ・ロサ、ヴルツが代役として出場し、バーレーンでデ・ラ・ロサは5位入賞を遂げるとともにファステストラップを記録し、サンマリノではレース後の繰上げではあるがヴルツが3位入賞した。
- 第13戦のハンガリーGPの金曜日(7月29日)をもって、1997年以来のタイトルスポンサーであったウエストとの契約を終了した。これはヨーロッパにおけるタバコ広告規制の強化を受けてのものである。7月30日以降のカラーリングは、それまでタバコ広告禁止国で開催されるGPで用いた手法と同様に、従来「WEST」のロゴがあったサイドポンツーン、ノーズ、コクピットサイド、レーシングスーツ、ヘルメットにはドライバーの名前をオリジナルデザインで表記し、チームスタッフには「WEST」のロゴ表記が消されたウエアとスーツが支給された。
- 前年までチームのテクニカルディレクターのエイドリアン・ニューウェイがレッドブルへ移籍。また2005年のDTMチャンピオン、ゲイリー・パフェットがテストドライバーに加わる事になり、それに伴って5年間と言う長期にわたってテストドライバーを務めたヴルツがウィリアムズのテストドライバーとして移籍した。
- 2005年のマシンMP4-20が圧倒的な速さを誇っていたこともあり、シーズン開幕前はライコネン&マクラーレンはこの年のチャンピオンの筆頭候補であった。しかし前年までの3.0リッターV10から2.4リッターV8へのエンジンルール変更に対応しきれず、メルセデスが十分な戦闘力を持つエンジンを提供できなかった。加えてこの年のマシンMP4-21自体もニューウェイ不在の影響からか熟成が進まず、前年にタイトルを争ったルノーとフェラーリの後塵を拝することとなった。結果として、コンストラクターズランキングこそ3位を確保したものの、1996年以来10年ぶりのシーズン未勝利に終わってしまった。
- モントーヤがF1に嫌気がさしたため7月9日に2007年はアメリカのNASCARシリーズへ移籍(チームはチップ・ガナッシ・レーシング)する事を発表。アメリカGPを最後にF1から離れる事になった。しかし、この発表がチーム首脳には直前になって知らされたこともあり、双方の合意の下シーズン途中で契約が解除され、テストドライバーのペドロ・デ・ラ・ロサがフランスGPよりレギュラードライバーとしてシーズンの残りのレースに参戦した。
- マクラーレンの産業スパイ疑惑
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フェラーリの元チーフメカニックであるナイジェル・ステップニーがチームから技術に関する機密情報を持ち出し、マクラーレンのマシンデザイン部門を統括するマイク・コフランに提供したとされる疑惑である。フェラーリはイタリアとイギリスに告発し、両国当局は捜査を進めていた。
- その中で家宅捜索に入ったマクラーレン関係者の自宅から、780ページ分に及ぶフェラーリの機密情報が記録されたディスクが発見されたことなどで徐々に表面化、FIAも独自に調査を開始した。
- * 7月12日 - FIAはフェラーリの機密情報が何者かに持ち出され、マクラーレン側に極秘に提供したとする事実を告発した。マクラーレン側は疑惑の関与を否定した。
- * 7月26日 - 世界モータースポーツ評議会(WMSC)に公聴会が開かれた後、評議が行われ、国際競技コードの第151c条に違反しているが機密情報が使用された証拠がないため証拠不十分としてマクラーレンに対するペナルティは課されないことが決まった。
- * 9月5日 - FIAは166ページに及ぶ疑惑に関する新たな証拠を提出、WMSCが関係者を招集し公聴会の開催を決定する。
- * 9月13日 - WMSCが公聴会を開き、その後再審理を行われた結果、以下の処分がFIAから発表された。
- *# 2007年のコンストラクターズポイント剥奪、今シーズンの残りのレースもポイントを獲得できない。
- *# 賞金や放映権収入などから分配予定だった1億ドルの没収処分。
- *# チームのドライバーに対しては証拠提出の見返りとしてペナルティを科さない(ドライバーズポイントはそのまま)。
- *# WMSCは、2008年のマクラーレンの車体に関する技術レポートを受け取り、2007年12月の会議の中でチームの2008年シーズンに関する制裁措置を行うかを決定する(マクラーレンは次シーズンの車体にフェラーリが使用している技術を一切使用していないことを証明しなければならない)。最悪の場合、1シーズン出場停止になる可能性もある。
- * 12月7日 - WMSCは、FIA技術部門にマクラーレンの2008年マシンにフェラーリの機密情報を組み込まれていないかどうかの調査は完了し、詳細な報告書がWMSCに提出された。マクラーレンの新マシンの合法性に関する裁定が下される予定であったが、WMSCはマクラーレンやフェラーリをはじめとする他のチームは、2008年2月14日に開催されるWMSCの臨時総会において報告書に対する意見を発表するチャンスを与えるべきであると判断した。
- * 12月13日 - マクラーレンCEO・マーティン・ホイットマーシュはマクラーレンの2008年マシン(MP4-23)にフェラーリの機密情報が含まれる予定だったことを認めそれを謝罪し2008年マシンの一部開発凍結の話し合いをする内容の手紙をWMSCとマックス・モズレー宛てに送った。
- * 12月18日 - WMSCはFIA会長マックス・モズレーの提案をうけ2008年2月14日に予定されていた公聴会を中止することで同意した。
- ドライバーは、ハミルトンが残留、アロンソは2年契約の2年目だったが契約解除となり、代わりに2007年ルノーに所属していたヘイキ・コバライネンが加入した。テストドライバーは、引き続きデ・ラ・ロサとパフェット。コバライネンは2008年シーズン中に2009年もマクラーレンに残留することが発表された。
- 新車(MP4-23)の発表会は、初めてドイツのシュツットガルトのメルセデス本社で行われた。
カラーリング
イギリス国籍のチームではあるが、チーム設立当初1968年からしばらくは車体はブルース・マクラーレンの母国ニュージーランドの
ナショナルカラーであるオレンジ色に塗られていた。
1972年からはヤードレイ化粧品がスポンサーに付き、ボディーサイドにチームカラーのオレンジを残した白/オレンジに塗られた。
その後、マールボロとのパートナーシップにより、1974年からはマールボロのパッケージと同じ赤白に塗られた俗にマルボロカラーと呼ばれるカラーリングが長らく用いられた(74年は3台体制でヤードレイ車も1台のみ参戦)。このカラーリングの赤の部分は、1974/75年にはパッケージと同じような赤で塗られたが、1976年以降はテレビ/写真写りを考慮して蛍光レッドに変更された。
1997年にカラーリングが変更され、銀と黒を基調に赤をアクセントに用いるカラーリングが使用されるようになった。これは、マールボロとの契約終了に伴いマクラーレンが独自のカラーリングを施すことが可能となったことにより決められたものである。銀色は「シルバー・アロー」メルセデスへの配慮、と考えられているが、カラーリング全体については当初のタイトルスポンサーであるウェストを含め特定のスポンサーの意向によるものではない、と、ロン・デニスは述べている。ロン・デニスはことのほかこのカラーリングを気に入っており、今後(他チームやマルボロカラー当時のマクラーレンのような)色と色の境界を線で区切ったようなカラーリングは自分のチームの車体には用いたくない、と発言している。その発言通り、2006年にカラーリングを若干変更した後も、各色の境はグラデーションを用いたものとなっていた。このカラーリングを施すためには、通常の3倍の手間とコストがかかると言われている。カラーリング塗装は毎回のGPの際、毎回行われている。
例外
上記したように、基本的にカラーリングはオレンジ色の時代、赤と白の時代、銀色の時代、の3つに分けることが可能であるが、40年余りの歴史の中では例外もあり、78年終盤の北米ラウンド2戦と79年にロングビーチで開催された
アメリカ西GPではマールボロと同じくフィリップ・モーリス傘下のビール会社レーベンブロイ(Löwenbräu)の水色と白のカラーリングにしているほか、1986年のポルトガルGPではマールボロの新製品マールボロ・ライトをPRするため、ロズベルグ車のカラーリングは本来は赤の部分が黄色に変更された。
近年では、マールボロとの契約終了に伴いカラーリングを変更した1996年末から1997年初めにかけてのシーズンオフと翌年のシーズンオフ、ウェストとの契約終了に伴いカラーリングに変更を加えた2005年末から2006年のシーズンオフにかけ、テストにおいて往年のオレンジ色のカラーリングを暫定のカラーリングとして用いている。
Image:McLaren M7A.jpg|1968年のM7A 初期のニュージーランドナショナルカラー
Image:McLaren MP4-13A.jpg|1998年のMP4-13A シーズン開始前のプロトタイプマシンで暫定カラーとしてニュージーランドナショナルカラーを復活させている
Image:McLaren M23 (Emerson Fittipaldi) - 001.jpg|M23 1973年-1978年のマシンで初期のマルボロカラー
Image:McLaren MP4.jpg|1981年のMP4 MP4ナンバーの最初のマシン マルボロカラーの基本的なデザインが完成している。
Image:McLaren MP4-6 Honda.jpg|MP4/6 1991年のマクラーレン・ホンダ
Image:McLaren Mercedes MP4-12.jpg|MP4-12 1997年のマシンでマクラーレンにとって最初のシルバー・アロー
Image:McLaren F1 Racer.jpg|2005年のMP4-20 タバコ規制が厳しくなってきたため従来WESTが入る位置がドライバーの名前になっている
Image:Jp montoya cheste 2006-02.jpg|2006年のMP4-21 F1カーとしては珍しいメッキ仕様のカラーリングをまとっている。翌年からのタバコスポンサーの完全規制によってWESTが抜けた
マクラーレンでドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー
変遷表
F1
*太字はドラーバーズタイトル獲得者
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など
*枝がついているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)
Can-Am
資本
- F1以外の活動は別会社が行っており、マクラーレン・グループを構成している。
- 2000年1月、当時メルセデス・ベンツの親会社であったダイムラー・クライスラーが、グループの所有権を40%取得。事実上、マクラーレン・グループはダイムラー・クライスラーグループの一員となっている。残りの60%をロン・デニスとサウジアラビア人の大富豪であるマンスール・オジェが所有してきたが、ダイムラー・クライスラーがこの残りの60%の株式を取得し、メルセデス・ベンツが単独でのF1参戦を目指しているのではという噂が根強い。
- 2007年1月にバーレーン王国所有のバーレーン・マムタラカト・ホールディング・カンパニーがロン・デニスとマンスール・オジェの保有する株式のそれぞれの半数を取得した。この結果、ダイムラー・クライスラーが40%・バーレーン・マムタラカト・ホールディング・カンパニーが30%・ロン・デニスとマンスール・オジェが15%ずつと保有比率が変化している。
マクラーレン・グループ
(主な会社のみ)
- マクラーレン・カーズ (McLaren Cars)
- 1990年に設立。高性能市販車の開発を行っている。
- 1994年、ゴードン・マレーのデザインによる非常に高価な公道走行車である「マクラーレン F1」(McLaren F1)を少数生産していた。前席は中央に運転席のみ、後部に2座席というきわめて稀な座席レイアウトを持つ。この車は、現在のところ、かつて生産された中で最も速い車であり、最高速度は時速370kmを超えて尚伸び続けるという。比較の対象となり得る他の自動車は、エンツォ・フェラーリ(Enzo Ferrari) 、ブガッティ(Bugatti)EB110 、サリーン(Saleen)S7 等。1995年には、「マクラーレン F1」の競技用仕様である「マクラーレンF1 GTR」の1台がル・マン 24時間レースで優勝した。
- 2003年9月、メルセデス・ベンツが「メルセデス・ベンツ SLRマクラーレン」を発表。開発・生産はマクラーレン・カーズが担当。受注販売のみとはいえ量産車として販売される。
- マクラーレン・エレクトロニックシステムズ (McLaren Electronic Systems)
- モータースポーツ向け電子制御システムの開発、製造。旧称はTAGエレクトロニクス。
-
2008年よりマイクロソフトと共同で、F1に参戦する全車に搭載が義務付けられるECUの供給を行うことが決定している。
- マクラーレン・マーケティング (McLaren Marketing)
-
1987年に設立。マーケティング、メディア対応などを担当。
- マクラーレン・コンポジット (McLaren Composites)
- 1993年に設立。自動車などに用いる、高機能素材の開発・生産を担当。
脚注
関連項目
外部リンク
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)